国会通信 No.336
【黒磯北中事件について】
1998/2/9 (マンデーレポート第336回の要旨)
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●本県の黒磯市立黒磯北中で、26歳の女性教師が
1年生の男子生徒に刺殺されてから10日間が経過した。
衝撃的な事件の波紋は全国に及び、現代の教育が抱えた
複雑多岐にわたる問題点の深刻さは、時間がたつにつれて
一層深まっていく感じがする。
●少子高齢化社会での親子関係の変質、兄弟関係の喪失、
深刻な疎外感と同時にそれと裏腹の空疎な集団化現象、
学歴という格付け社会での受験教育、これでもかこれでもかと消費と物欲を
あおり立てる消費社会、教師・学校・PTAの3すくみ状況、
等々考えなければならない論点が実にありすぎる。
そして問題点を共有する世代が一方で教師になり、
一方で児童となるサイクルに入ってきている。このことが
さらに問題をより深刻にしている。
これらの全体について整理することは私の能力を超えている。
そこで思いつくままに考えたことをあげてみた。
●「痛み」の大切さ
家庭も学校も同じように、できるだけ痛みを避けてきた。
肉体的な痛みはもちろん、精神的な痛みもできるだけ避けたり
逃げたりしてきた。安逸に毎日を過ごすことに価値を置きすぎた。
そのようななかで「痛みの実感」を失い、人を刺すことが痛みを
与えることと意識されなくなってしまったのではなかろうか。
「痛み」の実感を持っていることは重要である。
そして人は社会的動物である以上、社会的関係のなかで「痛み」を
実感できていることが すべての出発点にあることだと思う。
小学校3年の時に私はある悪戯をした。そして父に見つかり
頬を力いっぱい殴られた。そのときの父の怒りは尋常ではなかった。
軍隊式の往復ビンタであった。後にも先にも父に殴られたのは、
この時が最初で最後であった。しかし、父は怒りながら、
実に悲しそうだった。怖かったが、その悲しみの中に深い愛情を感じた。
そして父の期待を裏切ったことが正直にすまないと思えた。
両の頬が真っ赤にはれ上がった、あのときの痛みは今も忘れられない。
これが私の「痛み」の原体験だと思う。
●ナイフの所持
事件後 県教育委員会が県内の3つの中学校を無作為で選び出し
3年生を対象にナイフの所持を調べた。その結果約17%の生徒が
ナイフを所有(家においてあるものも含む)していることが分かった。
事件後 県は刃渡り6センチ以上のナイフを県青少年育成条例に基づく
有害がん具に指定し、18歳未満の青少年に販売が禁止された。
新聞には、「ナイフの正しい使用法を教えるために家庭も
学校も努力すべきだ」などの投書も寄せられている。
子供たちのナイフの所持については、一概にそれを悪と
決めつけるわけにはいかないと思う。
自分のことは自分で守るといった、自立の課程で現れる原始的な行動
なのかもしれない。SMAPのキムタクへの単純な憧憬の結果なのかもしれない。
成長の過程で簡単に卒業していくものなのかもしれない。
ナイフを正しく使う方法を指導することとで今回の結果を避けられるとは
思えないのである。
要は、ナイフを人に突きつけることが相手に対してどのような作用を及ぼすか
といった想像力を持っているかどうかである。
そして、ナイフを刺されることで感じる苦痛を実感できるかどうかであり、
その究極としての死への恐れを持っているかどうかである。
今回の場合、死の痛みや恐れさえ、実感のない仮想のものになって
しまっていることが最大の問題だと思った。
●肉体的な痛みと精神的な痛み
仮想ではなく実態のある「痛み」を持つこと、これが重要である。
そのためにはなにを考えたらよいのだろう。
不器用なくせに工作の好きな私はよくナイフで手をけがした。
しかしそのような単なる肉体的な痛みは、意外に記憶に残っては
いないものだ。
「悪いことをした」という精神的な苦しみや後悔の思いと、
肉体的な痛さが一致したからこそ、
父のビンタが私の「痛み」の原点になっているのだと思う。