第1 連立政権の総括

1 細川連立政権


第1 連立政権の総括   93年8月の細川政権発足以来現在の第2次橋本内閣まで、   連立政権の時代が続いている。 そして今、4年ぶりに自民党が衆議院での過半数をかろうじて回復、   政権に加わっている社さと自民の間に急速に距離感が出てきているから、   早晩連立は解消され自民単独政権が復活することになるかもしれない。   連立の時代の終焉はもうすぐそこに来ているのかもしれない。   こんな時期だからこそ、連立の意味を自分なりに総括しておく   意義もあるかもしれない。 1 細川連立政権(93年8月から94年4月)   自民党が野党に転落し、政権前半の4ヶ月は70%以上の高い支持率を得て、   細川政権は超高空を順調に飛んでいた。   この時期私は統一回派を組んだ「さきがけ日本新党」を代表して   議院運営委員会の理事をつとめた。      政権は、社会党、新生党、公明党、民社党、など八党派からなる   過渡期連立政権であった。   政権内のバランスとしては、さきがけ日本新党が細川総理のおひざもと政党として   中軸に位置し、右と左にそれぞれ新生党、社会党があって   それぞれの間に中間政党としての民社、公明が位置する構造であった。      連立政権の運営方法などのマニュアルがあるわけではなく手探り状態であったが、   さきがけ日本新党が、政権の要(かなめ)の役割をし、   新政党と社会党という比較的大きな政党の間に入って   バランスをとったり調整役をしていくといった構造は、   その後の連立政権と比べると、安定感は高かったような気がする。      連立政権に参加する政党の役割は、   東京大学の高橋進教授によれば以下の3通りに分類できるそうである。   すなわち    @ Pivotal Party(軸足政党またはかなめ政党)      連立政権の性格を決めている政党。 連立政権の中心にある政党。      必ずしも規模が大きいとは限らない。    A Wing Party (両翼政党)       かなめ政党の両翼にある政党。    B Buffer Party (緩衝政党)      1と2の間にあって、政策決定に時にはキャスティングボートを握ったり、      時には政権の緊張感の緩衝役をする政党。   この3種類の役割分担という観点で見れば、   実は一番最初にできた細川政権が、偶然ではあるがもっとも   バランスのとれた政権であったかもしれない。   さきがけ新党は若い政党であり、総理を出しているとはいえ政権内にあって   基本的には謙虚にふるまわざるを得なかったし、   両翼の新生も社会もその規模においては飛び抜けてはいなかった。   細川氏の個人的な人気のみならず、脇を固めた武村官房長官、田中首相補佐等の   個人的なキャラクターもあいまって、政権当初は驚異的な人気を博すことになった。   この細川連立政権の力学的バランスが崩れるのは、   かなめ政党の頂点に立っているはずの細川氏みずから、   両翼政党の片方である新生党の小沢さん、そして緩衝政党の公明党の市川さんよりに   スタンスを変えることによりバランスは完全に崩れてくる。   そして武村・村山 対 小沢・市川 の確執が強烈になっていき、   結果としてこの対立は「国民福祉税」論議で抜き差しならない   ところまで来てしまう。   連立のバランスが発足当初とは全く異なる結果になり、   政権のかなめとして懸命なバランスをとってきたさきがけ日本新党も、   細川・武村というトップ同士の分裂の結果、かなめ政党としての機能が   果たせなくなってしまったのである。   細川さんが94年4月になって突然の辞意表明をしたのもやむを得ないところであった。   このような細川政権崩壊の原因は、   表面的には小沢対武村等の個人的対立の結果と見えるかもしれない。   しかし、真相は、政界再編の考え方の違いや再編の   リーダーシップを誰がとるかの争いであったと思う。   小沢氏は早急に自民党に対抗できる政党を作りたかった。      しかし、理念的な調整そっちのけで、   しゃにむに大政党路線を突っ走るその性急さは、   自らの理念と将来性に自信を持つ新党さきがけ、   そして労働組合という全国的な組織に支えられた老舗のプライドを持つ社会党、   この二つの政党の理解は得られなかったのである。、     結果として細川辞任後、新党さきがけは   「閣外協力」という新しい方向性を模索する。   「閣外協力」という当時は耳慣れなかった一種の政治的「造語」は   田中秀征氏の発案だったと思う。   協力はするが閣僚は出さない、これが閣外協力の意味である。     このような一種与野党の狭間での折衷的な立場に   自分をおかなければならなかったところに、   さきがけの苦衷があった。   自民党と訣別し、対自民の道を選択しつつ、   対自民勢力の大結集には時間がそれなりに必要である。   結集のプロセスについては、さきがけの側と新生党との間で違いがあり、   その違いが武村・小沢等の強烈な個性のぶつかり合いのなかで、   さらに溝を深めてしまったのである。     小沢さんとは一緒にやれないことも分かっていた、   しかしかといって、訣別した自民党と組むわけにももちろん行かない。   さてどうしたらよいのか、ということで、   暫定的な路線として選んだのが「閣外協力」という路線であった。   そしてこのことは、決してさきがけ全員の理解を得た選択ではなかったのも事実である。   このことが後のさきがけ分裂・民主党結成への遠因となっていく。   私はどうかと言えば、   根本の部分で大国主義の考え方に立つ小沢さんともやっていけそうもないし、   また自民党と接近することももってのほか、   しかし局面をどう切り開いていくかとう展望も見いだせず、   結果として閣外協力路線には賛成するしかなかったのである。