第1 連立政権の総括
3 羽田連立政権(94年4月〜7月)
3 羽田連立政権 (94年4月から同年7月)
羽田政権は、「連立の不安定さ」と「少数内閣」という
二つのウィークポイントを持って出発せざるを得なかった。
細川政権後半での小沢・市川 対 武村・村山の確執が、
さきがけの閣外協力を呼び込み、
さらに羽田総理首班指名直後の大会派「改新」構想に
社会党が猛反発、結果として社会党が政権離脱をし
野党化するといっ状況であったから、
最初から羽田政権は風前のともしびであった。
閣外協力ながら「予算・政治改革」では
羽田政権に協力する方針を出した新党さきがけであったが、
税制・国連・憲法・北朝鮮問題では政策協定に拘束されない
との注文を付け、いっそう羽田政権と距離を置くことになった。
政権復帰を一日も早くと望む自民党は
当時の河野総裁のハト派的な側面と
小沢氏のタカ派的な側面を必要以上に強調し
社会党に急接近してきた。
新党さきがけも小沢さんの大国主義や官僚主導型の
大蔵省べったり路線に警戒感を強めていた。
そして私も、柿沢外務大臣の外務官僚主導の外交に
強い危惧を感じたのである。
その第1は、
「核行使について国際法上これを違法と考えるかどうか」との
国際司法裁判所の問い合わせに対して、
日本国政府としては
「これを違法とすることは国際法の解釈としてはできない」等の
あたかも核行使を適法と認めるかのような陳述書を出そうとしたこと。
第2に
国連常任理事国問題についてわが国の政治的判断が
整っていないにもかかわらず外務省が独走して流れを作ろう
としていること、
の二つの問題で、
羽田政権も官僚主導の流れを変えるどころか、
これを強化しているかのように感じられたのである。
こうして新党さきがけは94年7月、
羽田内閣不信任案に賛成し、
自社さ連立の村山政権に参加することとなったのである。