第1 連立政権の総括
4 村山連立政権(94年7月〜96年1月)
4 村山連立政権 (94年7月から96年1月)
1) 発足当初
自社さ連立政権の村山政権の発足については、
さきがけの内部では多くの議論があった。
だれもが歓迎してこの結論を迎えたわけではなかった。
首班に村山さんをというのは、社会党の希望であったかもしれないが、
公式にこの話を持ち出したのは、さきがけの側であったと記憶している。
これも、自民を政権に復帰することのマイナスイメージを中和したい
という計算と、また議席数において社さをあわせても自民の数に
満たないという社さ側の数の上での劣勢を総理大臣ポストで
埋め合わせようとの計算があったことも当然である。
しかし、野党に転落して1年にも満たない自民党の復帰に
手を貸すのにはやはり相当の抵抗感があった。
現に自社さ政権誕生間もなく、
さきがけの創立メンバーの一人佐藤謙一郎代議士が離党する。
彼は自民党の政権復帰にさきがけが手を貸したことが
どうしても許せなかったのである。
また私と常に行動をともにしてきた大分の岩屋毅前代議士も離党する。
彼は社会党とさきがけが急接近することに
違和感を持ち続けていたからである。
私自身の違和感についてはすでに書いたが、
しかしあの状況のなかでさきがけの選択肢は限られていたことも
明らかであった。
さきがけの名前を一番先に提案したものとして、
さきがけのロゴマークを宇都宮から持っていった者として、
さきがけの行く末を見届けたいという思いも強かった。
私は、むしろ逃げずに積極的に自社さ政権を支えてみよう、
どこまでやれるか、やれるだけはやってみよう、
そしてその過程で、
自民党の変革や社会党の変革もできるかもしれないと考えたのである。
私の後援会報の「ワイズ・トマロウ(略してYトモ)」の
94年後半号の巻頭言は
「水と油の化学変化」と題して、
両極の政党自民党と社会党を一緒の政権内におくことで
無理矢理に自己改革してもらおうとの意図を率直に書いている。
ある意味でこれは、前記の自民党プロブレムに対する挑戦でもあったのである。
########################################
「水と油」の化学変化! 衆議院議員 簗瀬進
94年7月1日、私は図らずも村山政権の建設政務次官に就任する事となりました。
これもひとえに、今まで変わらぬご支援をいただいた皆様のおかげであり、
感謝にたえません。
ありがとうございました。
それにしてもこの半年間の政治変動の激しさには舌を巻きます。
1月下旬政治改革法案が大幅修正のうえ国会で成立までは
細川政権は順調でした。
しかし、その後、深夜の「国民福祉税」構想発表、
武村官房長官の更迭問題、
新・新党構想、大統一会派問題と急転落を続け、
ついに細川首相は佐川問題等で辞任表明。
連立政権の本質を無視した、
新生党・公明党の強引なやり方が細川政権を崩壊に導きました。
その後、羽田政権が誕生したものの、
無理矢理大会派「改新」を作ろうとし社会党は猛反発して野党となり、
少数与党内閣に転落、予算成立後総辞職へ。
そして、誰もが予想しなかった自・社・さ連立の
村山政権の誕生ということになりました。
さきがけとしては苦しい選択でした。
しかし、新生党と公明党がリーダーシップを取る連立政権に
再び参加する事はどうしてもできませんでした。
第1に、
公開された民主的意思形成をすべきであるという
我々の真剣な提案は通じませんでした。
第2に、
「行政改革なくして、税制改革なし」という提案にも、
消極的であり、大蔵省の路線に従った消費税アップを
当然の如く考えているようでした。
第3に、
日本の将来の進路についての重大な選択である
「国連の常任理事国入り」の問題についても、
外務省の積極的方針に盲従しているとしか思えませんでした。
これらの理由で、政策転換のためにはどうしても
新生党・公明党から政権を奪う必要があると考え、
結果として自社さきがけという連立政権を作ることとまりました。
この選択は、さきがけにとっては苦しい決断でした。
1年前に訣別した自民党と再び手を組む事の不可解さ、
また新しい保守を作ってくれると期待している人々にとって、
社会党と手を組む事は不快感をもたれるでしょう。
当然、支持率の低迷も予測されました。
野党の無責任なかっこ良さのほうが票は集め易いのです。
しかし、歴史はもう「自民」「非自民」で争う段階から、
まちがいなく新しい局面に発展してきています。
そして、歴史の必然として誰かが自社連立という
タブーに手を染めなければならない事態が訪れるのは分かっていました。
いわば「自社対立」の55年体制という
「猫の首に鈴」をつけるのが「さきがけ」の役回りだとしたら、
つらくてもそれから逃げてはならないと判断しました。
村山政権は、前途多難です。
しかし、新しい日本の政治を切り開くためには、
長年の仇敵同士を一緒にさせるしかないと考えます。
いわば、幕末の薩長同盟をさせた「平成の坂本龍馬」の心境です。
そして、このことは、日本の将来の政治にとって必ずや積極的な意味を持つと
信じています。
それは、「水」と「油」を無理矢理一つの政権におしこめれば、
必ず相互に自己変革せざるを得なくなるということです。
社会党には「自衛隊・国旗・国歌」の関門が、
自民党には「戦後50年問題・族議員」の関門が…。
いうならば、自社双方に対する遠心分離機の役割が「さきがけ」です。
「さきがけ」が蒸気機関車となって、
やがては自社さきがけの三党の発展的解消が有り得るのではないか。
そしてアメリカの民主党のような政党を作って行きたいと考えています。
応援してください。
(94年 7月 Yトモ下旬号から)
########################################
ここで書いているように自社さ政権をつくる際に
私としては自民と社会に対するそれぞれの踏み絵を突きつけたつもりであった。
社会党に対しては、
55年体制における不毛なイデオロギー論争のテーマとなり、
わが国の政治の世界の環境変化に対する適応力を著しく低下させてきた
安全保障や「自衛隊・国旗・国歌」の問題に対する決着を、
そして自民党に対しては前記の自民党プロブレムの根源にある
「戦後50年問題」
そして癒着の体質を生み出す「族議員」問題についての決着を、
さきがけは自社に対して二本の短剣を突きつけたつもりであった。
しかしこのもくろみは社会党には見事に的中した。
しかし、自民党には、、残念ながら顕著な効果を発揮することはできなかった。
2) 連立政権の化学変化
村山政権においては、社会党への化学変化はじつにドラマチックに起こった。
村山政権誕生直後の94年7月、
衆議院本会議場において村山総理は自衛隊合憲を明言した。
この時の情景をマンデーレポートは以下のように伝えている。
1 ・固唾を飲んで、村山首相の言葉に聞き入る。
・「自衛のための必要最小限の実力組織である自衛隊は憲法の認めるものである。」
と言い切った瞬間、本会議場はどよめきが。
・社会党の歴史的転換。音を立てて、55年体制が崩れていくのを目撃した。
2 自社さきがけ連立政権の目的の一つが早くも実現した。
(1) 社さの政策協議に、あえて自衛隊承認を盛り込んだ
さきがけの思惑が、早くも効を奏した。
(2) この政権は、自社双方に自己変革を迫るのが目的の一つである。
自民党への自己変革要求も重要。自民党に向けられた自己改革の刃、
それは戦後50年問題。
政策協議であえて1項目設けているのは私の考え。
(3) この点について、所信表明では、
アジアとの相互理解のための交流センターの設置や歴史研究についての
助成、資料センターの設置などかなり具体的にふれられた。
この点は大いに評価する。
(4) これについて、村山首相はもっと強く自民党に迫るべきだ。
靖国神社参拝問題について、憲法判断を避けた点については、
自民党に配慮しすぎ。
私としては賛成できない。
3 意義
・ (自衛隊論議につての)不毛な対立の消滅。
いままでは国の基本政策について自民と社会の領有の間で
基本のところから意見対立。
このために政策論議ができず、また世論が遠心的に分離するのみ。
自衛隊を継子扱いする事で逆にシビリアンコントロールが
困難な状況になっていた。
これからは、実のある防衛論議が可能になる。
(94/7/25 第166回マンデーレポート)
このように社会党の「化学変化」は、明瞭な形で起こった。
しかし自民党の場合は、そう簡単にいかなかった。
50年問題は相当の緊張感をもたらしたことは間違いなかったが
分裂が現実化するところまでは持っていけなかったのである。
そして、逆に政権に復帰した自民は、
持ち前のしたたかさでジワジワと体制を立て直していくことになった。
そして、逆にさきがけと社民党は独自の存在意義の低下と
思うようにのびない支持率に悩むようになる。
自民の化学変化を起こすつもりが、
逆に自らが化学変化の危険にさらされることになっていった。
3) さきがけの悩み
自民に起こすはずの化学変化が、逆に新党さきがけに向けて起こってきた。
村山政権のなかで自社という大きな政党に挟まれて、
なかなか独自性が発揮できない。
さきがけはじわじわと自社に埋没していくのではないか
という焦燥感にとらわれるようになっていく。
もちろん、村山政権の出発の際に作った3党合意は、
社会党提案の形にはなっているが、具体的な内容はさきがけの政策が
かなり強く反映されたものであった。
村山政権の意義づけを「暫定政権」から「本格政権」へと位置づけ、
さらに村山政権の意義を「行政改革内閣」と意義づけたのも、さきがけの提案であった。
村山総理の、武村大蔵大臣、園田官房副長官、田中秀征代表代行への信任は
大変厚いものがあった。
しかし、さきがけが最初の提案をしたテーマであっても、
最終的にまず自民党そして社会党の合意がなければ現実の政策にならない以上、
マスコミの目は規模の大きい方に当てられるのである。
さきがけは見えない、なにをやっているか分からない
といった評価にどうしてもなっていってしまうのである。
村山政権発足直後は、民権政治の提唱、国連常任理事国入り問題、
大蔵改革、官邸機能の強化、特殊法人の整理統合問題など、
主に行政改革の分野でさきがけは数々の具体的提案を行った。
すでに羽田政権に対し、「行革なければ増税なし」の提案をしたさきがけとしては、
国民福祉をやみくもに求めようとした大蔵省の増税攻勢をストップするためにも、
村山政権の政策の根本に行政改革を位置づけようとしたのである。
その後に自民党の政策に取り入れられているものも多数ある。
しかし、連立政権のなかで、他のパートナーに「いいとこ取り」されたり、
こちらが成果を上げそうになると、変化球をなげてつぶしてしまったりして、
小政党の手柄にはしてくれないのである。
なお、村山政権発足当初、
自民・社会を行革の土俵にのせるためにも、
具体的な歳出削減案を提起することとなった。
「さきがけの歳出削減案」 は、以下のようなものであった。
@ 公共工事の建設コスト削減=約1兆3000億円
A 特殊法人の整理・合理化=約8700億円
B 新型国債の発行による消却負担の軽減=2000億円
4) 行革委員会の事務局長人事問題
村山政権発足の年の94年の暮れに行政改革委員会の事務局長人事の問題が起きた。
第184回マンデーレポート 94/12・05
【先週の出来事】
・01日 さきがけ緊急総務会。行政改革委員会の事務局長人事について
骨抜きなら「腹を括る」。
【行政改革委員会の人事】
「行政官」が「行政改革」できるのか?
それは「受験生が試験官を兼務するようなもの」結局骨抜きになる。
3 緊急総務会で意思統一。
大蔵大臣、厚生大臣そして田中代表代行に一任。
「閣外協力」の声、「それだけではすまない。」
「しかし、それでも良い」との声ガ出る。
4 官邸に対しさきがけの尋常ではない決意をしっかりと伝える必要がある。
鳩山代表が会議の模様を直ちに官邸に伝達するよう提案。
5 さきがけの存在意義を示すため?
そうではない。
自民、社会ともに行革については真の熱意なし。
大政党に挟まれた21名のさきがけが自らの主張を貫くためには、
常に一触即発の決意が必要。
そして、その時におよんで自己保全のために逡巡する我々ではない。
右の下線部分に当時のさきがけに対する自分の気持ちが率直に出ている。
自社の狭間で存在意義をなかなか示せないことへのいらだちが
逆にはっきりと現れている。
当初10人で出発したさきがけも菅さんが入り、
民主の風の4人(中島、荒井、五十嵐、小沢)が入りと
数は20人をこしてはいたが、
さきがけがリーダーシップをとった明瞭な成果がなかなかあげられない。
自社に埋没しているのではという世間の声はじょじょに強くなっていった。
5) 特殊法人改革問題
次には特殊法人の改革が問題となった。
特殊法人改革の論議は、さきがけに入った菅さんが中心に
なって取り組んできたテーマである。
改革の目的は、各省の関連している特殊法人を統廃合し、
庶民感覚からかけ離れた「天下り」の弊害をとりのぞき、
時代の役割を終わった法人はリストラする、
また民間がやれることは民営化するか事業撤退する等、
結果として行政経費の縮減に寄与することにある。
特殊法人の概要を簡単にまとめると (いづれも95年当時)
@ 全体数 九二法人
A 職員数 五六万九千人
B 出資金・補助金 年間約4兆円
C 総裁の給与 約 130万〜140万
これらを整理・合理化して=約8700億円を削減しようと言うのが、
さきがけの提案であった。
このさきがけが提案した特殊法人改革については、
当初はどうせできやしないと見られていたが、
95年の2月、各省庁の改革案集約の頃になると、
それなりのかたちがつけられそうな情勢になっていた。
2月10日は、特殊法人改革の各省案取りまとめの締切日とされていたが、
14法人の統合、1法人の廃止、4法人の民営化・事業見直しが決まり、
11法人の削減は確定した。
言うならば、さきがけの提案が不十分ではあるが
身を結びそうになっていたのである。
報道2001(フジテレビ)に出演した武村大蔵大臣が
「行革大魔王」と賞賛の声を浴びていた。
われわれも、これで少しはさきがけの評価も上がるかと期待感は高まっていた。
さきがけの出資金補助金2割カットの大目標から言えば
歳出削減は軽微であり、ものたりない感じがする。
しかし昨年さきがけがこの問題を提起したとき
「どうせなにもやれやしない」と思った人が大半であったろう。
たった21名の小政党が、
よくぞここまで自民と社会を引っ張ってきたと正直思っている。
マスコミは「望めない統合効果」とか「天下りポスト減るだけ」と
消極的な評価が一般的。
しかし、少なくともまず削減の決まった法人の総裁の椅子11個は
確実に減らせたし、もろもろの歳出削減に必ずつながるのは間違いない。
私としては「小さくても大きな一歩である」と考える。
(95/2/13 第193回マンデーレポートから)
そこに降ってわいたような難問が投げつけられてきた。
それが輸銀と開銀の統合問題である。
村山政権には、さきがけを代表して武村代表が大蔵大臣として入閣していたが、
その大蔵省関連の特殊法人についても当然まな板の上に載せられなければならない。
締め切り間際になって急浮上してきたのがこの政府系大銀行どうしの統合問題である。
この問題は実は自民党の仕掛けであったと私は理解している。
特殊法人改革には目玉がないと自民党はマスコミにアピールしつづけていた。
統廃合の規模では実は過去最大級であるにもかかわらず、
目玉がないことを強調して、さきがけの特殊法人改革の成果が
あまり拍手喝采を受けないよう工作しつづけているのである。
そして、大蔵大臣はさきがけ出身だから、
目玉として大物の統廃合をやってもらいましょうと自民党筋が動いてきた。
簡単にはできないことを見越した上での罠でもある。
塩の専売の民営化や海外経済協力基金の統合などすでに
大蔵省関係の特殊法人についても具体的な統廃合対象を
決定していた武村大蔵大臣は、自民党から余計な重い荷物を
背負わされることになってしまった。
この辺の自民党の裏の思惑を敏感すぎるほど読むことができる武村さんは、
逆に自分の考えに固執する。
自民党なにするものぞと、よけい突っ張ってくる。
開銀と輸銀、沿革も性格も機能もまるで違う銀行である。
このようなものを一つにして化け物のような巨大銀行を作るなど、
逆に行革の本質に反する、
武村さんはこの考えを曲げようとはしなかった。
我々も、自民党の思惑は十分に見抜いていた。
しかし、テレビや新聞が今回の特殊法人改革の最大の目玉は
「輸銀・開銀の統合問題」と報道し始める、これができれば合格、
できなければ不合格、といった相変わらずの変に単純化した
報道を始めている。
これは、もう逃げることは出来ないぞ。
もし逃げると、さきがけが特殊法人改革をつぶしたことにされてしまう、
もうこれは大蔵大臣としての信念は腹にしまってもらい、
輸銀・開銀統合の方向で突っ走る以外にないとみんなが考えるようになっていた。
再三その方向で武村さんとも議論した。
しかし、武村さんは自分の考え方を曲げようとはしなかった。
そして輸銀開銀の統合問題については大蔵大臣として最後まで反対を
貫くことになってしまったのである。
結局、こ問題でも、最後の土壇場でさきがけは点数をあげられなかった。
それどころか、行革を口にしながら最後は逃げてしまう
政党のマイナス評価を受けるようになってしまうのである。
私を含めてさきがけの議員は、
総理官邸で続行中の武村代表、井出厚生大臣、鳩山代表代行らの話し合いを
党本部で見守る。
明け方の午前3時すぎまで党本部で待機。
結局結論でず。
一応「引き続き与党内で議論を続行し、今国会中に結論を得る。
その結論を政府も尊重する。」
こととして散会した。
(95/2/13 第193回マンデーレポートから)
連立のなかにありながら、
自民党は他党が点数を上げるのを、実に上手にカットしてくる。
行革のさきがけ、志の高いさきがけの看板が、さびついてきた。
自社さ連立の化学変化は
さきがけのほうによけい強く重く現れてきたのである。
6) 統一地方選挙そして参議院選挙 さきがけ振るわず!
特殊法人改革論議が一区切りついてから2ヶ月、
さきがけが初めて迎える統一地方選挙となった。
地元栃木県では、さきがけの公認候補として
足利から若干29才の青年、大豆生田(おおまみゅーだ)実君が大健闘、
徒手空拳の手弁当選挙で堂々第2位の当選を果たした。
しかし、県内全体ではさきがけの公認候補や推薦候補が擁立できず、
新党の難しさを痛感した。
統一地方選挙の終盤近くなって田中秀征さんから
深夜電話があった。
そして急きょ東京遊説をすることになった。
・ 終盤戦になって突然東京遊説をしようと言うことになった。
・ 言い出しっぺは田中秀征代表代行。
20日の深夜、いつものように唐突な電話があり、
「明日1時に蒲田駅、それから自由が丘、目黒駅とやって最後は新橋駅。
武村代表も出るから、簗瀬君もつき合え。」
・ 暮れなずむ新橋駅では多くの人々が足を止めて話を聞いてくれた。
武村代表や、井出厚生大臣の話にはヤジも飛んだ。
しかし、「さきがけ」に期待している人はまだまだ多いとも感じた。
・ 田中代表代行は「東京、大阪知事選の結果は、有権者の政治を変えろという
明確にして積極的な意思表示である。
そしてこの流れは今後ますます強くなっていく。
一部の政党は、無党派層をとりこもうとタレントやスポーツ選手の擁立に走っている
が、これは誤り。
情報公開等もっと開かれた政治に変えていくしか方法はない。」
と言い続けた。
・ 私は締めくくりの挨拶。目の前に新橋第1ホテルがある。
2年前の6月17日午前4時私はあのホテルの1室で武村氏に離党の決意を表明した。
言うならば新橋はさきがけの発祥の地。己を捨てて政治改革のために決断した自己犠牲、
自己放下の原点に立ち返るべきである、
と訴えた。
涙がにじんだ。
(95/4/24 第201回 マンデーレポートから)
さらに3ヶ月後の95年7月、
さきがけとしてはじめての国政選挙 参議院選挙が行われた。
目標5議席のところ3議席、
肝心な東京で議席がとれなかった。
予想外の厳しさであった。
【選挙結果と今後の政局】
1 与党3党は、改選議席の75議席を大幅に下回る65議席。
新進党は改選19議席を倍増以上の40議席(午前4時半現在)。
さきがけは、目標5議席中3議席。
東京、神奈川の地方区を落とす。
(中村敦夫さん、石川好美さん、本当に申し訳ありませんでした。)
2 さきがけ敗北の反省。
1) 改革姿勢を明瞭な行動で示せなかった。
2) 地方組織の非力。
3) 連立政権の相互牽制効果が、特に震災対策や景気対策にマイナスに。
(95/7/24 第212回マンデーレポートから)
この参議院選挙の結果を見ながら、
誰もが感じていたのは自社さ政権のなかで
さきがけの存在を光らせることができないことへのもどかしさであった。
参院選の厳しい結果を横目で見ながら、
自社さの村山政権に今後も参加しつづけるかどうか、
深刻な議論をせずにはいられなかったのである。
今後のさきがけのスタンス (午前1時から4時まで、みんなで議論。)
1) 村山政権に参加することには同意。
2) 但し、個別案件(内閣法改正、市民活動推進法等早急に検討)を提示して提携。
実現できなければ連立解消も考える。
3) 政権参加の位置付けについても再検討。
(95/7/24 第212回マンデーレポートから)
7) 第2次村山内閣と武村代表辞任問題
新党さきがけは、参議院選挙の結果を受けて、
さらに自社さ政権に踏みとどまるべきか議論をつづけていたが、
最終的には4つの条件を付けて村山内閣に参加することを決定した。
(95/7/26 新党さきがけ 議員総会)
4つの条件とは
@ 次期通常国会までに官邸機能の強化のための内閣法を改正すること。
A 各種審議会の公開を9月から実施すること。
B 次期通常国会までに土地買い上げ等の公的機関を設置すること。
C 「国連改革」検討委員会を設置すること。
ところで、 私や堂本議員、高見議員が強く求めていた、
市民活動を推進する基本法(NGOやボランティアグループ等の
非営利団体に法人格を付与し、税制面での支援を含む
市民活動促進のための社会的基盤の整備をはかる基本的法律)
を次期通常国会までに成立させるべきである
との提案は最終的には採用されなかった。
この課題の重要性と緊急性についての理解が
さきがけ所属議員全体に行き渡っていないのは
きわめて残念であった。
政権参加を決めた議員総会の2日後の7月28日、
武村代表が突然代表職の辞任を表明し、
それを翌日撤回するといった混乱があった。
武村さんも、さきがけの現状に対して責任を感じているのはよく分かる。
1 しかし、大蔵大臣として改革の大ナタをふるえなかったことが
最大の問題なのだから辞任すべきは大蔵大臣なのではないか。
わたしは、代表よりも閣僚を辞任すべきである、
と考える。
自社さ連立の参加政党がそれぞれ主要閣僚ポストにすわ必要は全くない。
2 さきがけは改革の前衛党として今一度原点に戻るべきである。
そして「改革」の方向性を各自もう1度確認すべきである。
3 「辞意」の「撤回」は、求心力を回復するための
武村流「田舎芝居」と「酷評」されよう。
さきがけの支持率はまた落ち込むであろう。
しかし、これでますます「行動」と「事実」で示す
崖っぷちに追い込まれたとも言える。
決然として行うのみ。
(95/7/31 第213回 マンデーレポートから)
大蔵大臣の辞任は是非ともしてほしかったができなかった。
当時すでにコスモ信組の処理という難問が出ているので
職場放棄のように見られるのはまずい、
村山総理の信頼が厚く
大蔵大臣がやめるなら自分も総理を辞めるとまで言っている
等々の理由で、代表辞任撤回後も大蔵大臣をつづけることになってしまう。
歴史にイフはあり得ないとよく言うが、
このとき武村さんがもし大蔵大臣をやめなかったら、
その後の展開は当然変わっていたと残念でならない。
8)村山総理辞任
96年1月 5日午前11時、
宇都宮で年始回り中に鳩山代表幹事から電話。
「総理退陣の模様、午後3時から緊急総務会を開催したい」
との連絡が入った。
午後4時45分
党本部で、武村代表が加わって総務会開催。
さきがけの対応について協議。
すでに連立政権の予算案は作成が終わっている。
そしてこれから予算を国会で審議しようとする前の退陣。
自社さで予算を作った以上責任がある、
簡単に政権を放り投げたらそれこそ無責任といわれてしまう。
取りうる選択肢がきわめて限られており、重苦しい雰囲気が続く。
自民党総裁の橋本さんは能力はありすぎるくらいにある人だが
自負心が強烈、また歴史観においてタカ派的なので、
連立をともにするには気分が重いとの声もでた。
細川政権末期の閣外協力の選択を、との意見もあったが、
閣外に去る大義名分は見あたらないのではないかとの意見強く、
最終的には「政策合意」を先行させてみて、
こちらの政策要求が認められるなら、
自社さの枠組みで再度政権に参加する事となった。
9) 村山政権に対する評価
村山政権に対する評価は様々である。
ただ自民党中心の政治では考えることができない
多くの果実を生んだことも明記しておきたい。
第1に、戦後50年の国会決議が、衆議院単独ではあったが、
自民党を巻き込んだ形でできたことである。
もし自民党を野党のままにしておいたら、
絶対に巻き込むことはできなかったと思う。
自社さ政権の第1の成果であると私は考えている。
第2に、行政改革の大きな流れを作ったことである。
第3に、民権と官権という明瞭な対比のなかで、
日本の最大の問題が官僚主導政治であることを明瞭にしたことである。