第2 鳩山新党そして民主党の誕生

1 鳩山さんのスタンス


第2 鳩山新党そして民主党の誕生  1 鳩山さんのスタンス     自社のはざまで埋没の危機にさらされつづける新党さきがけであったが、   そのつらさは自民党の橋本さんが総理になってから   さらに厳しくなってきた。   局面を打開し、新しい政治の展開を求めて、   武村さんは社さ新党論の方向を模索していた。   これと異なる方向で、   さきがけの新党論を追求していたのが鳩山由紀夫さんである。   当時さきがけ内部には大きく分けて3つの考え方があった。   その一つは、武村さんの社さ新党論である。   もう一つが鳩山さんの新党論である。   そしてもう一つは田中秀征さんを代表とする純粋路線であった。   「くっきり、スッキリやせ我慢」の言葉通り、   さきがけが自らの理念と政策をしっかりと追求していけば、   自然と党勢は拡大する、理念なき数あわせの新党論は避けるべきである、   というのが田中さんの考え方であった。   私のスタンスは、といえば、   さきがけ発足当初は田中さんと同様の考え方であったように思う。   さきがけモンロー主義と言っても良いくらいの自信と気迫があった。   しかし、細川政権が予期せぬかたちで崩壊、   苦汁を飲むよう自社さ連立への参加、   輝かしい実績があげられない現実、   といった事態のなかで、さきがけモンロー主義を貫いても   党勢が拡大できるような状況ではとてもないと判断するようになっていた。   かといって「社さ新党」では意味がない。   55年体制を本当の意味で終わらせることのできる新党、   自民党の理念的な雑居状況をスッキリさせることのできる   新しい理念をもった政党、そしてその上で   将来はしっかりと政権を担えるようなある程度の規模の   政党を模索するようになっていた。   鳩山さんは、武村さんとは異なる方向で新党を模索していた。   彼のアプローチは自社さ連立の村山政権が誕生した直後から開始されている。   武村さんと鳩山さんの違いは、武村さんが新党論のパートナーの中心に   社会党をおいていたのに対し、鳩山さんの新党はもう少し幅を広げて、   従来の保守セクターにもウィング(=翼)を広げようとしていたことである。   そして、新党論を語るパートナーとしては、   新進党サイドからは鳩山邦夫氏、船田元氏、   旧日本新党から、海江田万里氏、牧野聖修氏、   そして社民党サイドからは横路孝弘氏らであった。   その顔ぶれから見ても理解できるように、   彼も私と同様「社さ丸ごと新党」はまずいと考えていたのである。   「社さ」にとどまらない当時の野党であった新進党まで巻き込んだ   幅の広い新党論を構想していたのである。     さきがけは、田中さんの独自路線を真ん中にして、   従来の革新セクターを中心に新党を模索する武村路線、   革新セクターとのみ新党を結成することに危惧を感じる鳩山路線が、   混在していたのである。   もちろんこの3つの考え方は、   それぞれ反目しあっていたわけではない。   それぞれが了解の上で、多様な可能性に挑戦していこうとしていたのである。   しかし、この路線の違いがやがては「さきがけ」   の分裂に発展していくことになった。   後に触れるが、いわゆる鳩山由紀夫氏の「排除の論理」は、   武村・鳩山の個人的な対立関係から生まれた言葉ではないと私は理解している。   言うならば新党にかける考え方の違いや、   日本の政治の将来的な構想の違いから出たものである。   マスコミの報道からは、人間関係の怨念から出た言葉のように   理解されがちだが、それは真実ではない。   鳩山氏と横路氏は95年頃からともに「リベラル・フォーラム」を作り、   それをベースにして新しい流れを模索していた。   また海江田氏は、新進党結成に参加するのをいさぎよしとせず   5人の仲間とともに「市民リーグ」を結成、新党結成の機会をうかがっていた。   この海江田氏とも鳩山氏は積極的に交流していた。   さらに、新進党のなかにあって小沢側近的な立場から離れ、   小沢批判を強めていた船田氏とも連絡を取り合っていた。   弟の邦夫氏と船田氏の位置づけは、   鳩山新党の保守セクターへの橋頭堡の意味を持っていたのである。   このようにして、鳩山さんは、新進党、社民党、旧日本新党を   巻き込んだ形での新党を追求していった。